先日スーツを買った。それなりのお店で、それなりの値段がした。これは、僕にとってそれなりの大事件である。僕は、労働でのみ使用する物品にお金を払うことが本当に嫌で仕方がなく、約二年間に渡り、ユニクロのストレッチが効いたジャケットとパンツを一着だけ購入し、ハンガーにもかけずシワを寄せて着潰しながら「あっしがこの営業所で一番の雑魚でござい。へへ、どうぞ踏みつけておくんなせ。」と嘯いていたのだ。
スーツと同時に革靴も購入した。ここでは少し抵抗を見せ、「普段使いができるように」と、ドクターマーチンの黄色いステッチがついた可愛い靴を選んだのだが、やはり、平日にスーツと一緒に履いてしまうと途端になんの興味も示せなくなってしまい、今では、靴擦れを起こして労働への怨嗟を増幅させる穴の空いた2つの黒い物体として、玄関先に捨て置かれている。
購入に至るまでの詳しい心理は割愛するが、これでも自分なりに己を奮い、労働に向き合う姿勢の変化を期待して金銭を投じたのだ。それなのに、勤務時間中に頻発する得体の知れない不安感は影を潜めることがない。「怖い、怖い」と独り言を発するために営業所を出て一階の喫煙所に向かう度に靴擦れが痛い。サルトルの「嘔吐」を読んで、「ロカンタンと不安感で韻が踏める」ときゃっきゃしていたのはもう三年前の出来事だ。
息を止めながら時をやりすごしていると、日々の感覚が溶け出し、輪郭をなくしていくことを実感できる。今日は別になくてもいいし、明日も別になくてもいい。ただ何故かやらなくてはいけないとされていることは存在し、拒否する勇気も気力もなく、もっと言ってしまえば、嫌だという明確な感情もなく、ただただ不安になっていくだけ。
我々はどうあがいても日々から抜け出すことはできない。生活は、個々が営むものだから工夫すれば殺すことができるかも知れないが、日々は我々の意思とは関係なく、ただ繰り返すのみである。日々という二字の熟語において着目すべきは「日」ではなく、「々」だ。哀れこの「々」は、名前を与えられることもなく、「繰り返す」という役割を果たすためだけに産み落とされた。我々個々人の日々について・・・
今のところ、僕の日々はとうに々々、もしくは々々々、はたまた々々々々の真っ最中である。日を取り戻すべく立ち上がるのか、々とともに自分を慰めるのか、二つに一つであることはわかってきた。現状、々にいくばくかのシンパシー。